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木村 浩吉(きむら こうきち、1961年7月12日 -)は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはフォワード(FW)。愛知県出身。日本サッカー協会公認S級ライセンス所持。 == 来歴 == 小学4年生の時に東京サッカースクール〔同期にとんねるずの木梨憲武がいる。〕でサッカーを始める。高校は東京都立鷺宮高等学校、大学は早稲田大学へ進学するがサッカー部には属さず、当時新設されたばかりの三菱養和SCでサッカーを学び、鈴木良平〔後にアルミニア・ビーレフェルトコーチ、日本女子代表監督等を歴任。〕らの指導を受けた。 大学3年次に西ドイツへ渡り、ビーレフェルトでコーチを務めていた鈴木の紹介で各クラブの練習に参加するが契約には至らず。大学4年次に鈴木と親交のあった加茂周の勧誘を受け日本サッカーリーグ1部の日産自動車サッカー部の練習生として参加、大学卒業後の1985年に日産の契約選手となった〔『サッカーダイジェスト』2009年2月3日号49頁〕〔日産自動車では1986年の規定の変更(プロフェッショナル選手の容認)以前から選手と嘱託契約を結んでいた。〕。木村はスピードとリバウンドに素早く反応する得点感覚で出場機会を掴むと、同年の天皇杯優勝に貢献。そのプレースタイルはボールテクニックに秀でた選手の多く在籍した同サッカー部の中で異色の存在であった。 日産は日本代表クラスの選手を多数擁し、1988年から1990年にかけて2年連続三冠(リーグ、天皇杯、JSLカップ)を獲得するなど全盛期にあったが、木村は厚い選手層の中で次第に出場機会を失い、オスカー監督時代には右サイドバックとしてプレーをした〔『サッカーダイジェスト』2009年2月3日号49頁〕。そして1991年1月1日の天皇杯決勝を最後に、翌シーズンから監督就任が内定していた清水秀彦からのコーチ就任の勧めもあって29歳で現役を引退した。 指導者としては、1993年から日産の後継である横浜マリノスのヘッドコーチを務め、1995年にはチャンピオンシップ優勝を経験。1996年からはトップチームを離れ、クラブの育成・普及部門で指導を行い、1999年からは「ふれあいサッカープロジェクト」の責任者としてサッカーの普及に尽力した。 2008年からは横浜F・マリノスのチーム統括本部本部長を務めていたが、7月14日に桑原隆監督の解任に伴い横浜F・マリノスの監督に就任した。木村の監督就任当時、チームはリーグ戦16位と低迷していたが、就任後は8勝6分4敗と好調を維持し9位でシーズンを終えると、天皇杯ではベスト4進出に導いた。この実績が評価され、12月にはクラブと3年間の契約延長が発表されたが、翌2009年11月に成績不振を理由に2009年シーズンをもって契約を解除することが発表された〔木村浩吉監督 今シーズンをもって契約解除のお知らせ 〕。 その後はJFAナショナルトレセンコーチを経て、2012年7月1日付で、JFAからの派遣でラオス代表監督に就任する。期間は2014年1月末まで。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「木村浩吉 (サッカー選手)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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